地球規模での企業展開が加速する現在、日本企業は国際法務の現場において本当に十分な対応力を備えているのか、またそこでの「AI」の可能性とは…。
国際弁護士の樋口一磨さんにお話をうかがい、国際法務の現場の状況や法務翻訳をめぐる課題を考えました。
本コンテンツは、月刊誌『ビジネス法務』2020年12月号掲載の同名の記事の拡大版です。
(インタビュアー:松元 洋一 弊社代表取締役)
整っている企業はわずかです。インハウス・ローヤーが何人もいて、実務レベルで英語ができるスタッフが何人もいてというところは、上場企業の中でも一握りです。売上げが数千億の規模になっても法務担当者は10人いれば多いほうです。英文契約書を完璧に書き直したり交渉にのぞんだりできるレベルのスタッフがいる企業となると、極めて限定されます。
何よりも法的手続をとるコストがとても高くなるため、よほど大きな案件でないと費用対効果がそもそも見合いません。数千万でとんとん、数百万だったら費用倒れになりますので、訴訟を起こさないほうがましという感じです。そのため、実際に日本から訴えるケースは限られます。日本の弁護士に代理人として相手と交渉してもらうだけなら、ある程度コストもコントロールしやすいし、もう一歩進んで現地の弁護士に代理人として交渉してもらう場合もコストの上限を決めて臨むことができます。しかし訴訟や仲裁という法定手続をはじめてしまうと、簡単に途中でやめるわけにはいきません。また、日本国内の紛争では、弁護士は着手金と成功報酬という伝統的な方式も多く、予算を組みやすいのですが、海外の弁護士の場合、紛争系もタイムチャージでの対応が基本となり、さらにそれをマネージメントする国内の弁護士も併用する場合は、その弁護士も通常はタイムチャージになりますから、コストは青天井になってしまいます。さらに仲裁となると、弁護士のほかに仲裁人の報酬が1時間5万円かかります。つまり、こちらから訴えるのは、かなりハードルが高い。債権回収にしても国内だったら100万円、200万円でもやりようがあります。弁護士も慣れているし、顧問弁護士なら費用の折り合いもつけやすい。だけど海外の場合、数百万円ではお話にならないし、数千万円でも厳しいです。
トラブルというのは、いきなりそういう事態になるのではなくて、必ずその手前に話し合いがあって、それでダメな場合に「もう訴訟か仲裁しかない」ということになるわけです。そしてその「手前」で、よりどころになる唯一のものが契約書です。国内の場合、日本人特有の、よくも悪くも信頼関係をベースとする文化があって、契約書が手薄でもなんとか話し合いで解決する場合も多いかもしれません。ところが、言語も文化も考え方も全く違う相手と「言った」「言わない」という論争になると、契約書がすべてのよりどころです。ですから国際取引では契約書の重要性が一段と高いのです。皆さん、そこにどれだけコストをかけて注意を払っているでしょうか。
契約書をしっかり作ることの意義の9割は予防ですよ。もちろん裁判になったときに有利になるということも大事ですが、裁判になった時点で相当な負担が生じます。そもそも紛争にならないように、そして紛争になったとしても法的手続に至る手前の交渉で有利に使えるように、という二重の意味での予防になります。
取引先によって契約書の重みが変わることは確かにあります。欧米には契約書を重視する文化があります。「契約書に書かれている」ことの重みが全然違うので、契約書に書かれていれば、すっと引いてくれることもあります。逆に、日本人にありがちな「そんなことは書かなくてもわかってもらっていると思っていた」という言い分は欧米の企業には通用しません。「メールに書いてある」と言っても「契約書の条項に入っていません」と言われてしまいます。他方、アジアなどの新興諸国では、契約書に対する意識は低い傾向にあります。とはいえ、やはり契約書の記載が議論の出発点であることに変わりはありません。先方が契約軽視だからこちらもいい加減でよいということではなく、それならそれでとことん有利な内容にしておくことが、後で身を助けることになります。
紛争系などの案件では、弁護士によってかなり対応方針に違いが出てきますので、他の弁護士にも意見を求めることはかなり有効です。契約のような予防型の案件でも、どれくらい細かくクライアントのニーズや状況を汲み取って反映できるかは弁護士によって個性が出る、つまり差が出てきます。その契約の全体においてどの条項が大事かというバランスや重みを意識しながら、どの条件を死守するか、どの条件は譲歩してもよいかという交渉も意識したアドバイスをする人がいれば、ただ平面的に字面だけを見て、これは問題、これはリスク、あとはご判断くださいと知らせてくるだけの弁護士もいます。後者のパターンは、弁護士にとってはある意味楽なので、実際は結構多いと思いますが、クライアントの本当のニーズには応えられていないと思います。
弁護士として、自分が述べたことに責任を持ち、リスクを取る覚悟も持った上で、一歩踏み込んだアドバイスができるかによるといえます。後になって「あの弁護士がああ言ったからこうしたのに」ということになると困るので、どうしても「リスクは全部お伝えしましたよ。あとはそちらの経営判断で」という対応になりがちです。それをきちんと判断できる企業であればよいのですが、実際には「だからどうしたらいいのかを教えてほしいのに…」と消化不良となる企業が多いです。一弁護士として、「ここは譲ってでも、ここを必ず通しましょう。譲るならまずはこれくらいのトーンでいってみましょう」と、具体的なアドバイスをすることが本来求められていると思いますよ。ただし、弁護士としてもリスクを取る以上、クライアントとの信頼関係ができている必要がありますが…。
サッカーでいうと、シュートは豪快で得意だけどディフェンスができない人、逆にのらりくらりディフェンスは得意だけど決めきれない人、攻守のバランスが良い人など、個性がありますので、適材適所なんです。実際は、やはりバランス感覚とメリハリが重要です。守りながら攻める機会を待ち、森と木を両方みる。契約においても、相手が気軽にサインをしてくれそうであれば強気の内容にしておく、あるいは突き返されるとわかっている内容を書くと結局スピード感が落ちるから、重要な部分だけはしっかり書いて他はトーンを落とす、といった具合で、クライアントやビジネスによって求められるバランスが異なります。それは共同作業となりますので、いざというときによい仕事をするためには、やはり日常的なコミュニケーションが大事です。ですから連絡をするのに遠慮や気兼ねをするような関係ではだめなんです。いまの弁護士が気軽に相談できないような人だったら、考えたほうがいいですよ、と申し上げたい(笑)。
先日、一部上場を含む法務担当者の方々からお話をうかがったのですが、やはり翻訳作業の工数と、翻訳に伴う内容のゆらぎについて悩まれていました。翻訳については、決裁のため、ほとんどすべての英文契約を和訳されている企業も少なくありません。この点は、多くの企業でAIによる機械翻訳を取り入れており、かなり便利になったとのことでした。しかし、内容の修正についてはAIを利用できず、引き続きご苦労されているようです。
英語にかぎらず外国語で提出された契約書の概要をざっと理解するのにはAIは大変有用です。スピードも速いしコストも安い。しかし、概略をつかむ範囲であればよいのですが、たとえば修正した日本語訳版のニュアンスをオリジナルである英語版に正確に反映する作業はAIには難しいです。またもちろんAIは相手と交渉はしてくれません。皆さんにどうしているかと訊ねると、「そこは自分たちでやっているから、非常に不安だ」と口を揃えて言います。
法律的な観点で修正し、それを正確に言語化するというのはまさに弁護士の仕事です。もっとも、優秀な翻訳者であれば、かなりの精度で適切な訳出ができる印象です。なお、契約書などは、細かなニュアンスも大切ですので、日本語版を作る時点で正確な翻訳がされていないと、その後、修正を英語版に正確に反映するときに困ることになります。
AIを補完的に使うという発想は法務翻訳においても妥当します。基本的に人が翻訳をしつつ、AIによる機械翻訳で漏れなどをチェックするという活用方法もあると思います。
「訳抜け」ですか。
英語版契約書の作成の依頼が多いのですが、そこでよくあるのが「社内のそれなりに英語ができる者がとりあえず英訳したもの」をくださるケースです。つまりそれで工数=コストが大幅にセーブできますよねということなんですが、実は英訳が正確かどうかを確認する作業が、普通にゼロから翻訳する場合とあまり変わらないんです。ブロックでおおまかな意味合いだけを追っていくんだったらいいんですけど、一字一句を対比していくと、すごく時間がかかります。英訳の精度が100%に近ければチェックも早いんですが、ひっかかりながらだと時間がかかる。だから実際にコストが安くあがるかどうかは翻訳のできしだいです。その意味でも翻訳会社に翻訳をしてもらって、翻訳としては正確だという保証があるものをいただければ、たいへん楽です。安心して見られるし、コストも抑えられます。もちろん、翻訳会社と訳者がきちんとしていることが前提です。
たとえば、既存の日本語版をベースとした英語版の契約書の雛形が欲しいとき、まず日本語版を正確に英訳した上で、内容を海外仕様に修正追加するという流れで作業することが多いです。
内容を海外仕様にする作業は弁護士しかできませんが、進め方は2通りあります。1つは英訳の段階から弁護士に依頼するパターン、もう1つは、まず翻訳会社に英語版を作ってもらい、それを日本語版と一緒に弁護士に渡すパターンです。その企業と弁護士との関係にもよりますが、単発で依頼したら後者のほうがコストは安い。私でしたらインターブックスさんにご協力いただくことで安く抑えることができますが(笑)、一般に弁護士に翻訳作業をさせれば当然料金は跳ね上がります。ですから翻訳会社に英訳を作ってもらい、それをベースに修正を弁護士に頼めば、コストを抑えられる場合が多いと思います。弁護士の売上げは下がりますが(笑)。
企業は、機械翻訳と翻訳会社をうまく使い分けることになります。AIと人を比べたとき、スピードやコストでは、人はもうAIにはかないません。しかし、機械翻訳の精度がどんなに上がっても、品質は100%にはならない。スピードとコストが重視される場面では機械翻訳でもよいと思いますが、内容の正確性や品質が問われる重要な場面では機械翻訳に依存するのは危険であり、やはり人が対応するべきです。ですから、人による翻訳のニーズは必ず存続します。そのかわり、人は、AIができない部分への対応力に磨きをかけるよう努力を続けなければいけませんね。
今年は企業活動が世界的に止まってしまいましたからね。
私が感じている範囲では、オリンピックの影響もあるのか、インバウンドの案件が増えてきている印象はありましたね。
観光だけではなくビジネスでもお金を落としてもらえるように入管政策を緩和したこともあるのでしょう。税制などが中途半端で後手にまわっているため、シンガポールや香港のようなハブにはなれないとは思いますが。中国やインド、ヨーロッパなど、インバウンドは上向いてきたかなという印象があったところに、この新型コロナウイルスの爆発的流行…。
少子高齢化が進む日本で、経済を維持していくためにはインバウンド需要の喚起が必須です。それは、仮にオリンピックが中止になったとしても同じです。そうなると、国内でも外資系の企業と取引する機会はどんどん増えてきます。外資系の企業でも、担当者は日本人で、契約書も日本語で、という相手であればよいのですが、マネージャーは外国人で、契約書は日本国内の取引なのに英文ということも珍しくありません。そこで慌てて英語ができるスタッフを雇用しようとしても、すぐには難しいとなれば、翻訳などをして対応するしかありません。